祖父

2019年09月07日

終戦70年。
祖父

今年の夏、祖母が他界した。
施設には時々遊びに行ったりして、雑談なんか
をするのだが、一つ顔色を変えて話す話がある。
「戦争から帰ってから別の人みたいだ。」
祖父は戦後喋らなくなったらしい、
祖父

私の祖父のイメージは「寡黙な相撲好き」
千代の富士が勝ったときに「良し」というだけ。

そんな祖父がたったの一度だけ私に戦争の話を
してくれた。これは家族も良く覚えてる事。
祖父
お盆に母の実家に帰省した時にTVで終戦番組
が流れていて、まだ小学生だった私が普通に
「センソーで何してたの?」と聞いたのだ。

娘である私の母でさえ口はばかって聞けない
話、所が存外すんなりと祖父は話をした。

「石川県の〇〇神社で寺社警備隊をしていた、
 終戦まで1発も撃った事は無いから、境内で
 1発撃って帰って来たよ。」
祖父

・・・これが「全部ウソ」だったって判ったのは
最近の事。

これは母から聞いた話。
祖父が癌で他界した後、遺品整理をした時に
色々片付けていた時に写真が出てきたが、
祖父
国内の寺社警備隊のはずだったが、背景は
中国語の看板がある、中国人?と思われる
軍属以外の人と写っている。

さらには軍人手帳?には全く別人の名前が
書かれていて、一部ちぎられていたりする。

これには親族も混乱する、石川県の〇〇神社を
探すが、、当然あるはずも無かった。

祖母の話では祖父は相当に早く招集を受けた
らしい。「志願兵」と間違われる程にだ。
「ウチには赤紙は来なかった。」と祖母、
ココは今となっては真偽不明。
祖父
戦後、復員兵が続々帰って来る中で祖父だけ
遅く帰って来ている。各方面の抑留者とも
全く違うタイミングだったらしい。

何をしてたかは答えてくれなかったそうだが、
「訳あって帰ってならんかった。」とだけ。

さらには復員のときもボロボロではなく
とても真新しい「別人の名前」の入った服。
祖母が指摘すると適当にはぐらかしてすぐに
捨ててしまったらしい。

それが、件の軍人手帳と同じ名前だったかは
今となっては判らない。「倉森」だったか、
「森倉」だったか、とにかく別人。

「倉森さんおりますか?」
一度だけ”戦友”と名乗る人が家を訪ねて来た
事があった。
祖父
あいにく祖父は留守、当時私の母がうちの
苗字は▲▲ですと言うと表札を見て怪訝な
顔をして帰ったそうです。

帰宅した祖父が母に「誰だったか?」と
聞いてもソコは子供、覚えてるはずも無く。
その夜、引っ越す引っ越さないで祖父母が
大喧嘩になったのを覚えているそうです。

母は「名前を聞かなかった」と怒られた
のですが。男が言わなかったらしいです。

戦友がはるばる尋ねて名前を名乗らないで、
子供相手にメモ書きも残さないでしょうか?
さらにはその男は二度と現れませんでした。

祖父は戦争を語らない、戦友会にも参加も
誘いもなかった。全くだ。

進駐軍の米兵も一度、土足で家に上がり
こんで来たそうです。
「オトウサンイマスカ?」みたいな。
この時は祖父と母は留守。祖母と次女。
祖父
で、別の家のご主人が引きずり出されて
押さえつけられてジープに乗せられて
「ちがう!▲▲(我が苗字)だ!」と
わめき散らして連れて行かれたとか。
これは曖昧な次女の話。

祖父
祖母が施設に入る前、祖母の貯金通帳を
管理する事になった母、古い通帳を見て驚く、
桁違いな軍人恩給?が振り込まれていた。

お金は何処に行ったかは祖父母が墓まで
持って行った「謎」ではある。

・・・という話。

どう整合性を探しても糸口すら見つからない。
私の祖父はその時、何処で何をして何を見て
来たのか。ナニモノであったのか・・・。

祖父
喋らなくなった祖父、それが全てなのかも。
知りたい反面、知りたくない様な。

相撲好きで演歌と江差追分の上手な祖父
今頃、天国ってものがあるのなら。

フラダンス好きの祖母とちゃぶ台挟んで
塩まみれの新巻鮭にどぶどぶ醤油掛けて
何の話をしているやら。

祖父





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Posted by ホロフカ at 01:30│Comments(0)戦争口伝
 
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